わが家の家族構成は、夫婦と一男一女といういわゆる「標準家庭」だ。
現在「現役」で、来年1月に14歳になる息子が学校に行かなくなって、この5月でまる五年がすぎた。学校に行っていたのが3年ちょっとだから、学校に行っていない期間の方が長い。中学校には一度も足を踏み入れたことがなく、途中で転校したこともあってか、自分が在籍している学校の名前をよく知らない。それでいて、生徒手帳はちゃっかり持っていて、各種学割に利用している。
11月に18歳になる娘は、この4月から夜間定時制高校に入学した。息子から遅れること10か月、中学1年の冬休み明け、「今日限りで学校をやめる」と担任と友達に言い放って、持ち物を全部持って帰ってきた。卒業式には、「けじめをつけてくる」と出席したが、高校は受験すらしなかった。「高校に行く」と言い出したのは、昨年の暮れ。それまで、勉強など全くもって見向きもしなかったのに、「勉強にハマっている」と忙しい毎日だ。
子どもが学校に行かなくなって最も強く感じたのは、学校というものの存在の大きさだ。妻が第一に心配したことが、「お昼ご飯をどうしよう」ということだった。学校というところは、勉強を教えてくれ、しつけもしてくれ、昼食まで出してくれる偉大な託児所だ。家庭では、子どもが学校から帰ってきてから、翌朝送り出すまでの生活のすべてが学校に向かっている。「宿題は」「明日の用意は」と追い立て、遅れないように起こし、追い出す。それらが一切なくなってみて、それまでいかに学校に依存し、かつ支配されていたかということに気付いた。
妻は、自身が出勤拒否を経験するまでは、息子が学校に戻ってくれることを願い、親の会で涙を流した。私は、なぜだかわからないけれども、すんなりと事態を受け入れることができたものの、学校や教師にやけに攻撃的になったり、さまざまな「理由」を並べ立てたりした。心のどこかに、「学校や教師がこんなに悪いから子どもが学校に行かないんだ」「本当ならばちゃんと学校に行っていたはずだ」という気持ちがあったのだろう。三日坊主で終わったが、学校の時間割どおりに息子に勉強させようとしたこともあった。「学校の代わりをしなければ、学校に負けてなるものか」というような意気込みがあったのだろう。今となっては、笑い話だ。
娘の「中学校中退」によって、子どもがふたりとも学校と事実上縁がなくなると、家の中が実に平和になった。不思議なことに、夜中に急患にかつぎこみ、ときにそのまま入院ということもあった息子のぜんそくが、うそのように軽くなった。きょうだいげんかは、その日以来ほとんど記憶にない。親子で言い争うこともなくなった。というよりは、お互い言いたい放題なのだけれども、ちっとも腹が立たない。まあ、夫婦喧嘩はないとはいはないけれど。
ひとりで大きくなったような顔をして」などということが言われるが、わが家の子どもに関していえば、本当にひとりで勝手に大きくなっている。親として何をしたかと問われても、答えに窮してしまう。「親」という字は、「立つ木のそばで見る」と書く。木陰に身を隠して、そっと子どもを見守る、ということだ。私の小学校高学年の学級担任の受け売りだが、妙にこれだけが強く印象に残っている。
息子は8月末から新聞少年になった。「金が欲しい」というのがその動機である。2か月分の給料で「プレステ2」を購入した。後はネットゲームの代金を支払っても結構残るので、「貯めておいて損はない」とせっせと貯金している。娘は六月から早朝六時半からのアルバイトを始めた。12月から生徒会執行部に誘われ、年があけたら車の免許を取るという。少々体が心配だが、自分で決めたことなので、見守るしかない。
息子は夜11時頃に床につき、朝4時半に起きて配達をすませ、朝食の後7時半頃からもう一度寝る。娘は、仕事は早朝、学校は夜で、ときどき昼寝をする。妻は交代勤務、私は深夜から早朝にかけての仕事なので、一家四人の生活リズムはばらばらだ。ときには一家で昼夜逆転し、真昼間から高いびきということも珍しくない。外から見れば、きっと相当に怪しい家族に見えるに違いない。
(不登校新聞2001年8月15日号掲載「わが家の場合」に加筆・訂正)
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